小笠原歩(女子カーリング)
シムソンズ
北海道北見市(旧常呂郡常呂町)出身の小笠原歩は、母親もカーリング選手でした。その影響もあってか、中学生になるとカーリングチーム・『シムソンズ』に参加しています。このシムソンズには、加藤章子、堀美香、そして小笠原の盟友になる船山弓枝が参加していました。ちなみに、このシムソンズの由来は、アメリカのアニメ・シンプソンズから来ているそうです。
シムソンズは1996年から世界ジュニアカーリング選手権に出場しています。そして、1998年には日本カーリング史上初となる銀メダルを獲得しています。
順調に成績を伸ばしたシムソンズは、2002年のソルトレイクシティオリンピックに出場し、8位という結果でした。五輪後、小笠原、船山はカーリングの強化を図っていた青森県に移ります。
小笠原歩 選手名鑑
フォルティウス(チーム青森)の結成
2003年に青森に移った小笠原、船山らは『RingoStars』というチーム名で活動を開始します。このチームには4月には目黒萌絵、寺田桜子が加わり、フォルティウス(後のチーム青森)が結成されました。
2004年の第21回日本カーリング選手権では優勝、第14回のパシフィックカーリング選手権にも優勝と、上々のスタートとなります。
2005年には本橋麻里が加入し、オリンピック選考会ではチーム長野に勝利しています。満を持して臨んだトリノ五輪では7位という結果でした。この結果を受け、小笠原歩はチーム青森を離脱、第一線から離れ、北海道に戻ることを決意します。
”「トリノのために四年間、すべてを懸けてきた。今の段階で次の目標を見つけられない。ここで一区切りつけようと思った」「初心に返って、“楽しむカーリング”を続け、競技の普及に努めたい。その中で、もう一回頑張りたいという気持ちになるかもしれない。カーリングは結婚・出産しても戻れるスポーツ。機会があればアイスに立つことも」
”出典:T青森の小野寺、林が卒業会見
北海道銀行フォルティウスの誕生
2011年には4年半のブランクを経て、再び現役に復帰します。復帰の理由にはいくつかあって、バンクーバー五輪の母親選手の姿を見て刺激を受けたこと、あこがれた普通の生活よりも、五輪を目指してきた日々に充実感があったこと、船山とほぼ同時期に出産が終わり、再び共に活動できることなどがありました。
しかし、精神力だけではなく、3時間にも及ぶ試合を戦う体力を要するカーリングへの復帰は容易ではありませんでした。「船山さんと私はどの選手よりもやった」という筋力、体幹トレーニングでは吐くほどの厳しいものを自らに課したのです。その結果、自信に加え、精度が高いショットを投げられるようになりました。そんなトレーニングを行いながら、新たに加わった吉田知那美(元ROBINS)、小笠原佳歩(元ROBINS)と北海道フォルティウスを結成し、再び世界を目指すことになったのです。
2013年にはソチ五輪代表決定戦の予選の出場権をかけて中部電力と対戦し、勝利をおさめます。しかし、世界最終予選では、中国に2回にわたり敗戦。ぎりぎりまで追い込まれますが、ノルウェーに勝利し、最後の切符を勝ち取る勝負強さを見せています。この試合では、第8エンドに6点につながる、素晴らしいショットを放っています。ソチ五輪では活躍を見せ、5位という結果を手にしました。開会式、閉会式で小笠原は旗手をつとめています。「メダルという言葉は簡単に口に出せるものではないということは、五輪を2度経験しているのでそう思います。」と語っていた小笠原ですが、大きな手ごたえがあった大会ではなかったかと思います。
世界女子カーリング選手権2015 新たなる挑戦
2014年になると新体制となり、チームには吉村紗也香、近江谷杏菜が加わり、船山は産休で休養。若い選手を引っ張る立場となって、世界大会にのぞみました。小笠原のつとめるスキップは、カーリングという競技の性格上、最もプレッシャーがかかり、一つのミスですべてを台無しにしてしまうこともある厳しいポジションです。この大会では素晴らしいショットを決める一方、ミスから敗戦につながることもありました。若いチームなだけに、小笠原の不調がチームに影響することもしばしばでした。時に、「すべて自分の責任です」と自らに厳しい言葉を浴びせるなど、大きな責任感を背負っていることを示していました。
そんな、小笠原はスキップについて、子供がカーリングをやりたいと言ったらという質問に絡めて、こう答えています。
”「息子がやりたいと行ったら、どんな小さな大会でも行ってしまうでしょうし、ハラハラドキドキして、試合を見ていられないかもしれませんね。スキップは、勝ったり負けたりするのもすべて責任にがかかってくる立場です。最後の一投まで、試合がどうなるかわかりませんから、私も親孝行しているのか親不幸してるいのかわからないぐらいなんです。だから、できれば息子には違うスポーツをやって欲しいと思いますね(笑)」 ”
出典:小笠原歩(女子カーリング):人生の分岐点が必ず4年に1度のオリンピックと重なってくる
また、そんな小笠原のことを、中学生の時からずっと一緒にやってきた盟友の船山はどう見ているのでしょうか?
”「みんなにも厳しいし、自分にも厳しくやっている人です。あれだけみんなに言うということは自分にもプレッシャーを与えているということなので、やっぱりリーダーだなって感じますし、試合になるときちっとメリハリをつけてくれて、そういうところは頼りにしてます」”
このように、頼りにされ、責任感あるリーダーとしてチームを率いている小笠原選手は、カーリングを日本に根付かせたいという気持ちも強く持っています。そんな、小笠原選手のポリシーを紹介して、記事を終わりたいと思います。
”「何かをやりたいと思うんだったら、自分から一歩を踏み出さないと何も道は開きません。もし、誰かに背中に押されて始めてしまったとしたら、挫折した時に誰かのせいにしてしまうことがあるかもしれません。でも、自分で決めた道を進めば、何かあった時も自分が選んだ道だと信念を持つことで、きっと乗り越えられると思うんです。こうなりたい、こうやりたいと思うことがあれば、自らの意思で踏み出すこと。そうすれば後悔することなく、目標に向かっていけると思います」”
出典:小笠原歩(女子カーリング):人生の分岐点が必ず4年に1度のオリンピックと重なってくる