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熊谷一弥 錦織以前に存在していた伝説的プレイヤー(日本初の五輪メダリスト 日本テニス界で2人しかいないメダリスト)

日本テニス界にとって偉業をなしとげた選手こそ熊谷一弥です。90年以上の時を経て錦織というトップレベルの選手が現れたため、再び注目を浴びることになりました。このページでは、熊谷一弥について掲載しています。

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選手名鑑

熊谷一弥(くまがい いちや)

福岡県大牟田市生まれ

166㎝/左利き

最高ランキング:3位(全米)/7位(世界)

1890年から1968年(明治~昭和43年)まで生きたテニスプレイヤー。 日本テニス界の黎明期に活躍、特に日本人として、世界大会でいち早く活躍した選手である。 慶應大学、現・東京三菱UFJ銀行で勤務しながら、プレイヤーとして活躍した。

1918年には、全米選手権で、ベスト4(グランドスラムで、日本人史上初)。

1920年には、アントワープ五輪で、シングルス、ダブルスで銀メダルを獲得。これは、テニス界唯一の五輪メダルであるだけではなく、日本のスポーツ界初のメダル獲得だった。

中学時代は、野球や陸上の中距離選手として活躍。

慶應大学に入学後、テニスプレイヤーとして活躍していく。

慶應大学は、日本で最初に硬式テニス(ローンテニス)を始めた大学だった(熊谷は最初、日本独特の軟式テニスを行っていたため、その時に身に付けた技術が、硬式に転向して大いに活かされた)。

1913年には東洋選手権大会でベスト4。この時、全米2位のビル・ジョンストンのプレーに衝撃を受けた。また、この大会が、日本選手で初めての海外遠征となった。

1915年の極東選手権競技大会では、シングルス、ダブルスで優勝。

1916年の東洋選手権大会では、シングルスで優勝した。

同じ1916年には、全米選手権に三神と共に初出場、日本人としても、四大大会に初めて出場したことになる。この時、熊谷は軟式だった主流のウエスタングリップに加え、左利きの独特のドライブを駆使、慣れていないトップ選手を苦しませた。熊谷はソフトテニス出身だった。

熊谷はアメリカ遠征において、60人と試合をして、土のコートでは1セットも落とさなかったという。しかし、芝のコートでは4人に負けるなど、強力なサーブに苦しんでいる。

1918年の全米選手権では、ベスト4進出。

1920年のアントワープ五輪では、競泳、陸上で日本が世界との差を見せつけられる結果となったが、テニスは違っていた。シングルス、ダブルスで銀メダルを獲得。ダブルス・パートナーは柏尾誠一郎である。

メダル獲得は快挙だったが、金メダルを取れなかったことを、のちのちまで悔やんだという。特にダブルスの日は雨のため、メガネをかけていた熊谷にとっては、不利な状況だった。

1921年には、初めて日本がデビス杯に出場、柏尾誠一郎、清水善造と共に、日本代表に選ばれている。

熊谷は30歳を過ぎた頃から、世界大会への出場も減っていたようだ。

1924年には「テニス」(改造社)という本を出版した。

1951年にはデビス杯の監督としてアメリカを訪れると、「熊谷、ニューヨークに帰る」と、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された。熊谷の名は、アメリカでも、しっかり記憶されていたのである。

1953年にはコーチであるウィン・メース著書の「テニス技術」(講談社)を翻訳している。

偉業の道をたどる錦織圭

Marianne Bevis

全米OP2014で、準優勝を飾った錦織。準々決勝ではワウリンカを破り、ベスト4に進出しました。熊谷が1918年に記録したベスト4ですが、実に96年ぶりに、錦織が時代を超えて、記録を作ったことになります。 この錦織の活躍により、熊谷一弥が再び注目されることになりました。

2016年にリオ五輪に出場する錦織は、メダル獲得という偉業にも挑むことになります。

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