現在、独特かつマイペースな語り口調で、BS朝日・錦織の試合を解説しているのが米沢徹氏です。錦織の米国留学時代、初期のコーチとして指導していた人物です。まさに、錦織のプロとなる土台を築いた人物と言えますが、このページでは、米沢徹が語る当時の錦織や指導方法、人物について、掲載しています。
コーチ、解説者
米沢徹(よねざわ とおる)
大阪府大阪市出身
1958年10月31日生まれ
186㎝/76kg
米サウスウエスタン・ルイジアナ大学出身
テニスは6歳から始めている。
日本での最高ランクは3位。
世界ランキングは300位
現在はTEAM YONEZAWAで、ジュニアの指導に当たっている。
1995年~1998年までジュニア・デビスカップ監督を務める。
盛田正明テニスファンドに所属していたこともある。
盛田正明テニスファンドは、錦織も利用した経験がある留学費用などを補助したり、選手を育成する機関。
IMGニックボロテリーアカデミーや、フランスでも指導経験があるなど、海外を知るテニス指導者。
アメリカでは、錦織、奈良くるみなどを指導した経験を持つ。
好きな言葉は「継続は力なり」
好きなことは、カフェでくつろぐこと。
米沢氏が語る錦織圭
米沢氏は12歳から14歳まで、盛田ファンドで錦織を指導しています。 当時の錦織は、13歳の時に150㎝しかなかったため、高い球を強く打ちかえすことができませんでした。
「反射神経も動体視力も良い選手ではなかった」と語っています。そんな錦織に対して、「ジャンプしてバックの高いところを、左右にコントロールできる選手は、世界にもいない」と説いて、1日100本のリターンの練習を課したそうです。 また、今では錦織の代名詞になった「エアーK」と言われるジャンピングフォアハンドの練習をさせたのも、この頃でした。高い球をただジャンプして打ち返すのではなく、武器になるように指導したのです。
そして、苦手だったサーブの練習も、当然ながら取組ませました。毎日、2時間をかけてサーブの練習をして、右だけではなく、左でも打たせるようにしたのは、肩や首が痛まないように配慮したためです。すると、錦織はスポンジのように吸収し、左でもとんでもなく高いレベルになったと言います。
さらには、高い球をスイングボレー(斜め打ち)して、スマッシュが打てなかった錦織ですが、数か月で克服。米沢氏はその学習能力の高さに、舌を巻いたと言います。
また、メンタルに関しては、「執念と負けず嫌いの両方を併せ持っている」と評しています。粘ってくる相手には牙をむき、強者に対しては、「何か一つでもやってやろう」とあきらめない粘り強さがあると語ります。
ただ、当時の錦織はひ弱で体力がなかったそうです。長い練習や、「頑張れよ!」というと、熱を出してしまう子供でした。そんな錦織に対して、ラーメンやうどんを食べさせ、休み休みやらせていたと言います。じっくり取り組める環境があったのが、幸いだったと語ります。
米沢氏は小柄な錦織に、3人前の食事をとることを課していたそうです。
「普通は嫌いなものは食べられないけれど、そういった指示を錦織は守っていた」「他の選手にはない能力、気持ち」を持っていたと振り返っています。
まさに、意欲にあふれ、素直な錦織の当時の姿が、浮かんできますね。 ちなみに、オフの日になると錦織はたくさん寝て、午後は米沢氏の家でゲームに熱中していたそうです。しかも、ゲームでもオリジナル技を編み出そうとしていたそうで、探究熱心な性格が表れています。
「プレイヤーとしての才能は14歳までに決まる」と言われるテニス界。錦織は自分に合った、良いコーチに出会ったと言えそうです。