近江谷杏菜(女子カーリング)
カーリング一家の中で育つ
北海道北見市(旧常呂市)出身の近江谷杏菜(おおみや あんな)がカーリングを始めたのは、常呂小学校にいた10歳の時です。父親の近江谷好幸もカーリング選手で、長野五輪には敦賀信人とともに出場して5位という成績もおさめています。また、ソルトレイクオリンピックでは、小笠原歩、船山弓枝らが所属したシムソンズのコーチを務めていた人物です。妹の近江谷七海もカーリング選手を目指して活動をしているなど、カーリング一家の中で育ちました。
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選手名鑑
バンクーバーオリンピック出場
2002年には本橋麻里の『マリリンズ』に参加し、日本ジュニアカーリング選手権で優勝するなど、好成績をおさめています。その後、自ら『grace』を結成し、2003年、2004年には北海道ジュニアカーリング選手権で優勝しています。そして、2008年にはチーム青森に参加し、再び本橋麻里とチームメイトになりました。チーム青森では青森市役所や青森市スポーツ会館に勤務します。
チーム青森は2008年に第25回日本カーリング選手権で優勝し、第29回世界女子カーリング選手権では4位に入る好成績をおさめています。そして、2009年にはバンクーバーオリンピック女子カーリング競技日本代表決定戦にサードとして出場し、チーム長野に勝利してオリンピック代表の座をいとめました。2010年にはバンクーバーオリンピックに出場しましたが、途中で極度の不振に陥り、スターティングメンバーからはずれています。チームも8位という成績で終わりました。この時のことを、近江谷杏菜はこう語っています。
”「こんなに(ショットが)決まらないのは、カーリング人生でもほとんど経験がなくって、何がおかしいのか、わからないんです。それが、いちばん苦しかった」「『ここがダメなんじゃないか、あそこが悪いんじゃないか』と、そればっかり気になってしまって、持ってるもの、積み上げてきたものがまったく出せなかった。考え過ぎだったんでしょうね。でも、それも含めて実力なんです」「五輪に出場できたことはプラスですけど、結果にはまったく満足していません。悔しいし、歯がゆいです。だから、この経験の上に、新しい上積みをして、私はソチ(五輪)を目指します」”
出典:【カーリング】チーム青森・近江谷杏菜の決意〜「勝ち続けてきたプライドが、私にはある」
チーム青森 出会いと別れ
苦い経験となったバンクーバーオリンピック。しかし、その後も近江谷杏菜に、さらに辛い試練がおとずれます。アイスではキャリア、年齢に関係なく一人の選手として尊重してくれ、アイスを離れればお姉さんとして頼りにしていた目黒萌絵、本橋麻里がチームを離れることを表明したのです。本橋は北海道の北見に『ロコ・ソラーレ』を設立することを決めていました。最初は本橋らがチームを抜けることを「このチームでやっていきたい。私たちの経験の上にどんどん新たなものを重ねて強くなればいい」と主張していた近江谷ですが、最後は強い気持ちをもって決断した本橋の意見を尊重しました。
”「以前のチーム青森は仲良くやってきた。本当にみんな大好きだった。でも、新チームではもっとガツガツしていきたい。ときには衝突しても、死に物狂いで勝ちにこだわる部分を出して、それが相手にも伝わるようなプレイをする。それが、世界で這い上がる姿勢なんだと今は考えてます。もう負けたくないですから」
”出典:【カーリング】チーム青森・近江谷杏菜の決意〜「勝ち続けてきたプライドが、私にはある
近江谷はこう語り、新チームを引っ張っていく決意表明したのです。しかし、チームの中心である目黒、本橋が抜けたチーム青森を立て直すことは難しいことでした。
”「バンクーバーでほかの競技の結果や選手の表情を見て、4年かけてきて何日間に力を出し切るのは並大抵の努力、覚悟じゃないんだと感じたんですね。新しいチームでは、カーリングに役に立つかもしれないことは全部試そうと思った。メンタルトレーニングだったり、ほかの競技の方の話を聞いたり、ケアもしっかりするようにしたり。チームに提案もしたりしました。例えば、トレーニングを個々でこなす感じだったのをみんなで集まってトレーニングするようにしたり」”
出典:近江谷 杏菜「思い描く自分の未来を実現するために」 « 北海道銀行フォルティウス |
などと、できる限りのことをしました。しかし、成績も上がらず、ソチ五輪をかけた2013年の日本選手権では5位という成績に終わり、オリンピックへの道が途絶えたのです。この大会について、近江谷は、「全力でやってきたが、チームの完成度も何となくわかっていて、不安の中で臨み、結果を見るとこれが今の実力なんだ、そう納得してしまう自分が嫌だった」と語っています。2013年にはチーム青森は休止し、その後シーズンを通しての活動停止が決まったのです。
北海道銀行フォルティウスへの参加
2014年に青森市役所を退社した近江谷杏菜は、小笠原歩の誘いを受け、北海道銀行フォルティウスに参加することに決めました。そもそも、チーム青森を結成したのは、小笠原歩、船山弓枝でした。当時すでに「より強く」を意味する「フォルティウス」をチーム名に使っています。今度は、チームこそ違えど、世代を超えたチーム青森にまつわるメンバーでのスタートとなったのです。それは、不思議な縁なのかもしれません。
”「オリンピックに出る、そしてメダルを取りたいという気持ちは、休んでいる間も消えなかったんですね。でもチームがなければいくら頑張ってもどうにもならない。目標がクリアになったというか、またオリンピックを目指せるんだ、という気持ちになりました」「自分の納得できるプレーを大舞台でもできる選手になり、その結果としてオリンピックでメダルを取ること。そう言うと、小笠原さんに『口では簡単に言える』と釘をさされるけれど、オリンピックの舞台でメダルをかけているイメージをしながら、日々のトレーニングを頑張っているんです。イメージしている姿に近づきたい、その姿になりたいですね。ポジションはやっていく中で定着していくと思いますが、氷の上でチームに貢献したいので、ブランクを早く取り戻して、自分がいないとチームが勝てないくらいの感じになりたいな」”
出典:近江谷 杏菜「思い描く自分の未来を実現するために」 « 北海道銀行フォルティウス |
こう意気込みを語った近江谷杏菜は、小笠原歩、小野寺佳歩、吉村紗也香と共に3月の世界女子カーリング選手権2015にリードとして参加しています。大会全体を通すと、リード経験が多いとは言えない近江谷は、良い試合もあったのですが、後半はドローショットが決まらず、チームのリズムを作ることができない不安定な大会になってしまいました。大会後には「良い試合と、悪い試合と波があったので、そこがとても悔しい。最後の試合はとても良いプレーができたので、そういう試合を一つでも二つでも多くできたら良かったという悔いが残りました。結成1年目のこのチームで、個々に力を持っているんですけれども、チームワークをこれから築き上げていって上を目指していきたい」と語っています。
このように、悔いが残る大会になってしまいましたが、いくつもの苦境を乗り越えてきた強さを持つ選手です。この大会も糧にして、前に進んでいくことを期待したいと思います。
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