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テニスプレイヤー ラファエル・ナダル伝 なぜ、彼はナンバー1になれたのか…

Rafael Nadalテニス

ラファエル・ナダルといえば、情熱的なプレー、クレーコートでの鬼のような強さ(全仏では10勝!)、尽きることのない体力、恐ろしいほど重くスピンの効いたフォアハンド、そして、トレードマークの試合での闘志あふれるプレー……プレイヤーとして優れた点をあげれば、ご覧のように次々と出てくるプレイヤーだ。しかし、それはナダルが見せる表の部分であり、一部分にすぎない。 

なぜなら、ナダルはものすごく思慮深く、謙虚で、まじめで、努力家で、何より忍耐強い。彼は優れたプレイヤーであることは十二分に証明しているが、それ以上に、優れた人間になることを強くのぞんでいる。その一環として、チャリティー活動にも力を入れている。とにかく、ナダルを知れば知るほど、ナダルというプレイヤーを注目せずにはいられなくなる。それだけ、彼は魅力的であり、やはり、人間として素晴らしい人物なのだ。(ナダル伝はナダルとジョン・カーリン共著のラファエル・ナダル伝を大いに参考にさせたもらった)

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ラファエル・ナダル伝

ラファエル・ナダル

ラファエル・ナダルはなぜテニスプレイヤーになったのだろうか。実を言えば、ナダルはサッカー選手になりたかったし、怪我をしてテニスのキャリアに重大な危機を迎えた時には、プロゴルファーに転向する可能性もなくはなかった。しかし、それでもやはり、ナダルはなるべくしてプロテニスプレイヤーになったと断言できる。しかも、超一流の。もちろん、ナダルが今のナダルになれたのは、多くの犠牲を払い、途方もない努力のたまものの結果である。 

では、ここから、ナダルはなぜテニスプレイヤーになったのか、見ていきたいと思う。そのためにも、まずは彼の一族、祖父とその息子たち…つまり、ナダルにとっては父親とその叔父たちに注目しなくてはいけない。

Rafael Nadal

Marianne Bevis

偉大なる祖父と賢く穏やかな父親、そして傑出した叔父

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※ナダルの父、母、恋人

ナダル一族が暮らすのはスペインのマヨルカ島にあるマナコルという人口4万人ほどの街だ。マヨルカ島は美しい砂浜とビーチ・リゾートが多くあり、観光客が多数おしよせる。そのため、島の主要産業は観光業である。日本人にとっては、ハワイのような存在で、ドイツ人、イギリス人がバカンスで訪れる地域だ。私はナダルを知り、マヨルカ島の独特の文化や習慣を知るにあたって、3年間居住していた沖縄を思わず重ねてみた。違う部分も多いだろうが、一族が結束していたり、一族や島の住人のつながりが強い点などは重なる部分もあるように思う。ちなみに、マヨルカ島には、かつてショパンが結核治療で療養していたこともあり、音楽家とも縁が深い。 

だからというわけではないが、ナダルの祖父……同名のラファエル・ナダルというゴッドファーザーは、16歳にして合唱団を結成した音楽家だった。80歳をこえてもオペラを指導するほどなので、当時から音楽への情熱がずば抜けて高かった。1940年代後半は、スペインで内戦が終わった時期で国が落ち込んでいた時だった。その当時、19歳の祖父は、島の中心、パルマでベートーベンの第9の合唱の依頼を受けた。祖父は、楽譜が読める団員が6人しかいなかった84人の合唱団を率い、6か月半休まず練習して、見事に第9の合唱を成功させたのだった。 

しかし、祖父の息子たちは音楽の素養を持ち合わせなかった。代わりに、ナダルの父親のセバスチャンは商才に長けていた。学生時代には音楽のイベントを主催して得た利益で中古のオートバイを買った。それから、卒業後は中古車販売で成功すると、観光業に目をつけ、ガラス事業をはじめて成功。さらには、不動産業も営んでいる。実際、それほど働かなくても良いのだが、セバスチャンにとってはビジネスが楽しく、生きがいだった。 

このセバスチャン以外の兄弟は、5人のうち3人がスポーツの才能を示した。特に叔父のミゲル・アンヘルは19歳でプロサッカー選手となり、62回のスペイン代表に選ばれ、バルセロナにも8シーズン所属した大スターだった。チャンピオンは5回なっており、ヨーロッパナンバー1にもなっている。

このフィジカルに優れ、頭脳明晰なセントラル・ディフェンダーのミゲルにもナダルはかわいがられた。10歳の時には、バルセロナのカンプ・ノウ・スタジアムで、バルセロナの選手たちと一緒に練習する機会を得た。この傑出した叔父は、しかし、実生活では率直で、謙虚で、うぬぼれることはなかった。この態度こそ、ナダル一族が重要視する美徳だった。そして、強固に結びつき、支え合うというナダルのこの一族こそが、ナダルがナダルにならしめた大きな要因なのであった。それでは、いよいよ、本題のナダルのテニスプレイヤーへの道を、いくつかのキーワードと共に見ていきたい。

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サッカー少年

少年時代のナダルは、マヨルカの他の子供たちと同じようにサッカーをやっていた。まして、ナダルの2人の叔父はプロサッカー選手であり、同じ家に住んでいた時期もあった。4歳のナダルは次の日に試合を控えていたミゲルを夜10時に起こし、ガレージにつれていって練習に付きあわせていた。また、早朝にたたきおこしたこともあった。ミゲルは渋々ながらも、常にナダルに付き合った。

ナダルはゲームになると常に真剣で、ガレージでのミニゲームでも負けると癇癪を起こしたし、それはトランプゲームでも変わらなかった。この負けず嫌いというのは一流のアスリートに共通していて、フェデラーも同様だし、錦織もトランプゲームでも負けるのが嫌いだった。あのバスケットの神様のマイケル・ジョーダンも同じだ。だから、もしも、子供がトランプゲームの時、負けたら癇癪を起すようなら、それを問題とみずに長所とみて押さえつけないのは大切なことかもしれない。少なくとも、真剣にやる子供を見守ってあげてほしい。 

話がそれたが、このような環境にあって、ナダルはサッカー選手にはならなかった。なぜなら、ナダルはサッカーだけではなく、テニスも並行してやっていたからだ。確かに、ナダルはサッカーが好きだった。好きなチームは叔父が所属したバルセロナではなくて、そのライバルのレアル・マドリードだったが、やはり、叔父の影響はあっただろう。ナダルの環境を日本でわかりやすく言えば、本田圭佑をたたき起こして、一緒に練習させるようなものだ。そんな恵まれた中にあったのは事実だし、ウィングをやっていたナダルは一年で50得点を決めることもあった。それに、家族や叔父たちにかわいがられたナダルは、仲間といるのが大好きで、チームプレイにも向いていた。だから、試合で大敗した時にはチームメイトに「あきらめちゃだめだよ!」「次に対戦したら勝てるよ!」と励ますようなタイプだった。また、テニスの大きな大会に招待され、試合当日に早朝からサッカーに興じて、大会関係者を激怒させたことがあった(しかし、大会は優勝した)。それでも、ナダルはサッカー選手ではなく、プロテニスプレイヤーとなった。それは、いったいなぜなのだろうか?

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テニスプレイヤーになった理由

その答えはいくつかある。一つは、ナダルは大人たちと共に過ごす機会も多く、とても成熟した子供だった。つまり、子どもの頃から一流のスポーツ選手に触れる機会があった。そのため、若いうちに早くも「プロになるためには?」と考えていた。特にテニスにおいては明確で、ある大会で勝てる相手に負けた時には、口もきけないほど落ち込んだ。それは夏休みの終わりの頃の大会で、ナダルは練習よりも、友人とサッカーをしたり、釣りをして楽しんだ時でもあった。父親のセバスチャンが驚いて、ナダルをなぐさめた。「夏休みは友達とたくさん遊べて、良い時間だっただろ。それに、いつも勝てるわけじゃない」。しかし、ナダルは突然泣き出し、ベストを尽くせなかった自分を嘆き、「夏休みは楽しかったよ。でも、こんな経験、二度としたくない」と語ったのだった。この時、ナダルはまだ10歳だったのだ。子供ながらナダルのその将来を見据える大局観に驚いたのだった。

ナダルはこの時期には、つまり、8歳の時には、バレアレス諸島の12歳以下の大会で優勝していた。それは、ナダルが明確に、テニスプレイヤーとしての資質を持っていることを示していたのである。これが、ナダルがテニスプレイヤーになれた理由の2つ目だ。しかし、これだけでは、とうてい今のナダルになれることはなかっただろう。なぜなら、最も大きな理由は、叔父のトニーの存在にあったのだから…。


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 叔父のトニー

もしも試合前、子供がぼろぼろで、立ち上がるのも困難な時、あるいは、小指を骨折して途方にくれていたら、あなたはいったいどのような言葉を投げかけるだろう? 試合をさせるだろうか?  昨今は日本でも、いかに子供を育てれば良いか、社会的な問題が起きるたびに議論されているし、簡単な問題ではない。 また、スポーツ選手に限ってみると、偉大な父親を持つ子供は、甘やかされて大成しないケースも目にする。しかし、ナダルの叔父の答えは明確だった。

”「さあ、道は二つある。もう十分やったからやめようと自分に言うか、苦しみに立ち向かい、進み続けるかのどちらかだ。耐え抜くか、諦めるか、二つに一つだ」”

この言葉通り、ナダルは少年時代に小指を骨折しても、試合に出て優勝した経験があった。炎天下の時に水を忘れたナダルに対し、トニーは水を買って与えることもできたが、それをしなかった。テニス教室に通う他の子供と違い、おいであるナダルと待遇の差を与えた。こう聞けば、身内を優遇したと聞こえるだろうが、答えは逆だった。ナダルだけにボールを拾わせ、練習後にはブラシでコートを掃除させた。練習中にわざと変に弾むボールを混ぜ、そのボールをコートからアウトさせようものならば、「ボールは三流なら、お前は四流だ!」と言葉を浴びせた。この言葉による侮蔑は時に行き過ぎたもので、最もひどい言葉は「マザコン坊や」という言葉であった。さらに、20点先制するという対決をして、わざと19点をナダルにとらせ、その後20点連続でとるといったこともやった。この不条理なまでの、ナダルへの厳しい態度は、すべて忍耐を学ばせるものだった。しかし、時に行き過ぎた指導を見て、一族の中には不満や心配をする声もあがらないわけではなかった。何より、トニー自身も悩んだことがあった。それでも、ナダルは叔父の指導によって強くなることができたし、信頼をしていたため我慢できた。それに、ナダルは素直でおとなしい子供だったのも良い方向に働いた。また、何よりそんな叔父の指導を、バルセロナでも活躍したもう一人の叔父、ミゲルが支持していた。忍耐を学ばせる。これが、一流になる最も大切なことだと知っていたのだ。このような様々な理由で、ナダルは少年時代も、プロになってからも、叔父のトニーを常にコーチとして信頼し、親愛の情を示している。 

このような精神面での容赦のない指導法は、技術面ではどうだったのだろうか? その前にトニーの人物像を見てみたい。トニーは、頑固で、哲学的で、しかし、ナダル一族同様、謙虚さ、礼儀正しさを重要視している人物だ。

ナダルには試合中にテニスラケットを折るようなまねは絶対に許さない。子供の教育に対しては甘やかすことを否定し、スパルタ方式で当たることを信条としている。この方法が正しいかどうかは、結局のところその人の資質や愛情、信頼関係にもかかってくるだろう。単純に是非を問えない。

少なくともナダルには、叔父のトニーのスパルタ式が当てはまっていた。ただ、勘違いしてほしくないのは、叔父は厳しかったが、家族はそんなナダルを愛情を持って支えたということだ。また、練習と普段の関係は違っており、ナダルは叔父のトニーを友人でもあると語っている。だから、うまくバランスが取れたのであって、もし、家でもスパルタが待っていれば、ナダルはつぶれていたかもしれない。

トニーの話に戻ると、彼はプロテニスプレイヤーになったが、大成しなかった。総合的な技術は持っていたが、突出していた武器がなかった。そのため、子供たちにはスクールで、ウィナーの重要性を説いた。また、テニスは瞬時に状況を読み解き、判断しなくてはいけないスポーツであるから、ナダルには子供の時から考えさせる癖をつけさせた。そして、プロになれば、極めて肉体に負担がかかり、精神的にも厳しい状況に直面する。それに備えるため、精神的にもきつい言葉や練習を課したのだった。そして、その指導法はナダルには適切で、大きな成功をもたらした。

このようにテニス指導者として大成したトニーだが、大学は中退している。トニーはその後、テニスプレイヤーになったが大成しなかったのは述べた。他にも、卓球選手としての腕前も確かで、チェスも相当な腕前だった。しかし、彼はテニスプレイヤーの道をあきらめると、兄のセバスチャンのガラス会社を手伝うことになる。だが、結局、トニーが落ち着いたのはテニス指導者になってからだ。セバスチャンはトニーに対し、コーチの指導に集中してもらうため、ガラス会社の利益の半分を譲っている。このように、一族でうまく補完しあうのがナダル一族の特徴でもあり、強みだった。 

このような経緯を持った叔父のトニーにナダルは指導を受け、今のナダルへの階段を上ったわけである。ちなみに、素直なナダルは、9歳までトニーを超能力者と信じこまされていた。というのも、祖父や父がいたずらで、トニーを見えないふりをしたことがあって、ナダルは自分だけが見える透明人間なんだと思いこんだ。他にもトニーは、イタリアのプロのサッカー選手のスターだったとか、ツールドフランスで優勝したことがあるなどとほらを吹いていたし、ナダルは真に受けていた。ナダルはトニーが雨を降らすことができる魔法使いとさえ信じていたのである。もちろん、これはすべてでたらめだが、それでも二人の絆はつよいものがあったのだ。だから、ナダルを語る上で欠かせない人物なのである。

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