両親が語る錦織圭 テニスを辞めようとした時に、奮い立たせた言葉
小学6年生になった錦織選手は、全国小学生大会をはじめ、その年代のタイトルをすべて獲得しました。
中学2年生になると、盛田ファンドの奨学金制度を利用して、アメリカに留学することになりました。
この時、父親の清志さんは松岡修造氏に相談しています。松岡氏は行けとも行くなとも言わなかったそうですが、決断の最後の後押しとなったようです。
留学を期に両親の元を離れ、アメリカのIMGアカデミーでテニスを学ぶことになった錦織選手。
そんな錦織選手の小学生時代のアドバイスをしていた清志さんが怒ったのは、あきらめた時だったといいます。練習中からあきらめてボールを追わなかった時には、口うるさく叱ったそうです。ひとつのボールをあきらめると、あきらめ癖がついてしまい、最終的に「あきらめた」ことさえわからなくなってしまう、そういう思いがあったからでした。だから、今も錦織選手は絶対にあきらめないテニスをします。その証拠に、最終セットの勝率は歴代選手の中でもトップクラスの成績なのです。
錦織圭、アメリカに渡る
si.robi
アメリカに渡った錦織選手は最初、物を勝手に使われるというような嫌な経験をしました。また、英語の理解も乏しかったせいもあるかもしれませんが、アメリカ人を怖いと思っていたそうです。「外国人を疑う癖がついちゃってる」とも言っています。しかし、同じ日本人がいたため、だいぶ助けられたようです。
3年目になり頭角を現した錦織選手は、テニスが楽しくなったと語っています。この時のインタビューでは「トップ10に入りたい」と将来の目標を語っています。
そんな錦織選手でしたが、IMGアカデミーのテニスの強い友人が大学に進学することになった時は、プロになれるか大きな不安を抱いたと言います。その友人でさえプロになれないのに、自分は…と思ったのでしょう。
しかし、不安と戦いながら、2007年の10月にプロに転向したのです。
プロに転向した翌年の2008年、錦織選手は大きな結果を出しました。2月のデルレイビーチで優勝したのです。この頃はランキング244位と伸び悩み、予選を突破しただけでもうれしいという時期でした。ですから、最後まで優勝できるとは思っていなかったようです。ウィナーズスピーチでは「テレビでしか見たことのない選手に勝てるなんて…信じられない」と率直すぎる言葉を語っています。この時、18歳と2か月。松岡修造が優勝して以来、16年ぶりの快挙でした。対戦相手のジェームズ・ブレーク(当時・ランキング12位)は「彼のジャンピング・フォアハンド(エアK)には悩まされた。ノバク・ジョコビッチのようだった」と語っています。
ただ、この時期は良いことばかりではなく、テニスをやめたいと思った時もあったと言います。
フレンチオープンでの予選敗退、ウィンブルドンでのけがによる棄権が連続して重なった時です。
この時ばかりは、両親に「テニスをやめたい」とメールをしています。その時、母親の恵里さんが返信してきたメールは、錦織選手を再び立ち直らせるきっかけになりました。このメールは、ある人物が過去に書いたものでした。
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「いつでも だれでも ラッキーはくる」
この2008年はUSオープンでダビド・フェレールを破ってベスト16になった年でもありました。しかも、本選出場の選手が欠場したため出場できるという運もあった大会です。
そんな喜びも辛さも味わったのが錦織選手が飛躍するきっかけとなる2008年でした。錦織選手はテニスを続ける理由を、苦しい状況を乗り越えることが好きだからと分析しています。
ちなみに、「いつでも だれでも ラッキーはくる」
この言葉を書いたのは、中学1年生の時の錦織圭でした。
相田みつをが好きな錦織選手は、色々と真似をしたり、自作の言葉を紙に書いていたのです。書いた言葉はすぐにゴミ箱に捨てていたそうですが、両親が良い言葉だからと取っていたのです。
清志さんは辞めたいと錦織選手がメールしてきた時に「答えは自分の中にあるはずだから、圭が過去に心のよりどころにした言葉を送った」と語っています。
錦織選手は中学生の時、未来の自分に当てたメッセージを書いていたわけです。
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